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時代を駆け抜けた技術と私:Winny、自作PC、そして変化するプログラミングの世界

更新日:3 時間前




何気なく、X.comを開いたら、winny事件や日本国産のOS,トロンのことに触れられていた。トロンは、スーパー301条によって、排除されました。


コメントは、差し控えたが、winnyは、ファイル共有ソフトなんだけれども、開発者が裁判にかけられて、結局無罪になったらしいけれども、わずか、1年半ほどで、心筋梗塞で、死んだらしい。


そのようなソフト開発者も、同じように亡くなっているそうです。私は、映画の「WINNY」を知らなかった。いろんな謎が、人々を想像を膨らましているようです。



私は、ちょうど、1984年に入社している。その5年ほど前にパソコンが、自宅にあった。日本橋の電気店に行っても、一台もなくって、ちょうど、母が、ダイエーにパートで勤めていたので、手に入ったのです。



その当時、パソコン雑誌があって、プログラムの書き方が載っていました。これを、入れて、オセロゲームをしたりしていた。高額のパソコンだったので、TVをディスプレイにしていました。


だから、数字のゼロを英語の「o」と間違えないように、丸にスラッシュをいれたりしていたものです。プログラムには、バグがあったり、つけ加えたりするので、10行ごとに基本は、書いていくのが、プロセスでした。


プログラムは、会社では、PC-9801を使っており、言語が違った。MSーDOSの時代だった。まあ、あまり使える人は、多くなかった。


弟はというと、プログラムはできたけれども、ひたすら、隠して、公務員になったのです。当時のプログラマーは、激務で、身を削って、するような3Kの職業であった。


私は、ある、旅行で、プログラマーと仲良くなったが、今とは違い、文章は、自分の手で書くことが、必要だった。そのプログラマーは、誤字脱字が多くて、げんなりしました。なので、こちらから、音信不通になり、そのままになった。


あまり、利用者もいない会社のPCであった。私は、当時は、ワープロを使うことが多く、10分間で、600字、打てたのです。だから、当時、「キーボードアレルギー」って言葉も流行ったが、私には、関係ないのであった。


忙しくて、PCまでは、できなかったので、私は、上司に同僚の男性を勧めた。でも、この男性は、さっさと、会社を辞めて、国家プロジェクトに参加している。


昔は、パソコンにも、いろんな言語があったと思い出した。


才能もないので、これ以上の書くことはないのですが、日本も過去は、IT分野で、かなり進んでいたことを知った次第です。


興味ある方は、映画「WINNY」観てみると面白そうですね。



 
 
 

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